島本 三太郎のプロフィールと生い立ち

空川へ落ち 九死に一生  5歳、 1937年(昭和11年)7月

空川(そらがわ)の貯水池の泉は澄んだきれいな水が湧く。当時この空川の水を飲み水として家まで引いていた。この日、いとこと一緒にあめんぼうを採りにいった。

貯水池の水面をあめんぼうがすいすいと泳いでいる。ふちから手を伸ばしてもあめんぼうは手の先のちょっとむこう、手の届かないところでゆうゆうと水面をすべっている。

棒で水面をぱーんとたたくと、あめんぼうは気絶して引っくり返る。気絶したあめんぼうをつかまえて容器に入れる。気が付いたあめんぼうは容器から出ることができない。

あめんぼう採りに熱中して空川のふちの上に立っていた時、バランスをくずして水深1メートルの空川の中に落ちた。かすりの 着物をきていたのを覚えている。水の中を水面を見ながら沈んでいくときに、水面の裏側が銀色に光っていた。あめんぼうの足のあとが丸く見えたのが、今でも強く印象に残っている。いとこの棒を掴んだら助かった。

その後大人になってから、このときの印象を俳句の形で表したところ、この俳句はその月の優秀賞をもらうことになった。

「あめんぼう 水面(みのも)の裏に届かぬ手」  三太郎

昼食に馬に乗って家に帰る  4、5歳 1936、7年(昭和10、11年)

父の畑にいて、昼時にご飯を食べるために家へ帰る時間になると、父純次が抱いてアカ(馬の名)の背に乗せてくれる。アカは三太郎を乗せてゆっくりと歩いて帰った。まだ小さい三太郎はアカにつかまっていたが、アカが溝を跳びわたるときや、溝の水を飲むときには落ちそうになった。それでも落ちたことはなかった。アカは子供が背に乗っているのがわかっているかのように、ゆっくりと歩いてくれた。

家につくと、家の前でヒヒンといななく。すると家の中にいる母が出てきておろしてくれた。

家畜をかわいがるとこんなことも体感する。

もちに失敗 小2、9月 1939年(昭和13年)9月

ひじの骨折施術で山本院に入院中、病院の中庭に行商がもちを売りにきた。イガもちといって、もちの上に米つぶがのっている。白、緑、黄、ピンクのもちがあった。色付きのもちがほしくて、母に緑と黄色のもちを買ってもらった。なんと、緑はよもぎもちで、黄色はきびもちではないか。家では白いもちを食べることは限られていて、みんな割り当てでよもぎもちときびもちを食べなければいけない。お金を出して買ってもらったもちが、よもぎときびだったのにはがっくり。

中一のときに左手首を骨折   12歳 1943(昭和18)年

小2のときににひじを脱きゅうして初めて骨接ぎに行って以来、2回目に向洋(むかいなだ)の山本骨接ぎに行った。そのとき山本には同年代の息子さんいた。彼は二中の帽子をかぶっていた。三太郎は呉一中なので、自分の方が頭がいいのだと思った。
この山本君は後に整形外科を勉強し、今では父の接骨院を山本整形外科に名前を改めて後を継いでいる。

母の実家に下宿 14歳

1944年8月に終戦の詔勅があって戦後を迎えた。私たちは自由になったんだ。
体制だけは学生は学徒動員から開放され、軍人は海外から復員して帰ってくる。呉市は7月の空襲で一面の焼け野原。親友も二人死亡、校舎もなくなっていた。

9月からの新学期は、呉市広町の軍関係の学校が廃校になった校舎で始まった。学校が遠くなり、自宅からの登校時間が1時間ふえることになった。4:30に家を出て8:30に学校に到着で、順調にいけば始業時間に間に合うという状態だった。

実態はそんなに甘くありません。通学時間4時間のうち2時間は船通、これが問題です。戦後は燃料の油がありません。それで質の良くない油を使うから、エンジンが故障して海上を30分、 1時間、 2時間と漂流します。こんな日が週4から5日あります。3時限目が終わったころ学校に到着するようなときは、「今日はもう帰ろうやっ」てことになる。

2年生が終わったときに、島本は進学に必要な学力がないということで、職員会議にかかる始末。しかし交通事情が悪かったのが原因と認められ、進級許可が出た。温情である。両親がえらく落胆して「止めるかー」などと話があったが、姉の嘆願でやっと首がつながった。

母の実家が呉市にあり、通学に便利だということで、そこに下宿することになった。夜が明けてから起きて、まだ日が高いうちに帰宅する。時間がたっぷりある。何もすることがないから勉強でもしようかと机に向かう。賢いやつはノートの整理をするといっているから、自分もやってみようと始めてみたら、講義の内容を覚えているではないか。それぞれの教科のノートが整理されていく。予習の時間まであるではないか。

1学期の期末試験では、理数系なら答えが全部合っているくらいになった。しかし残念なことに、 答案用紙は50点台。そのわけは、そこは有数の進学校だから答えに完璧な書き方があるということです。説明が足りないと減点法で欠点になるのである。3学期までには平均点が70点台になって進歩したことが分かる。

中4になってから高校の最終学年までオール100点が完成し、クラスで1番になった。この3年の間に、クラスのブービー賞からトップ賞までを味わったことになる。トップになるということは、システムを手に入れることであると思う。自分は幸運であったのだ。

両親の死

新制高校制度が始まったの、自分は三津田高校2年生になった。6月になって母が肝硬変で広島市に入院し、10月18日他界した。  父は翌年の12月に胃がん発覚し、翌年の1月に手術、 その後し、2年間生存し 2月7日に他界した。

この世界大戦で2人の兄が戦死し、 1人の姉が原爆死して、 また 両親と別の2人の姉も被爆した。  結局5人の家族が死亡したので、13年の間毎年法要をする破目になって、なかなか生活が安定しない日々であった。14年目が1回抜けただけで、それからも何年も法要のために生きているようなものでした。

両親が他界したので、進学の望みは消滅してしまいました。2人の弟を養わなければなりません。

ビニールハウスでトマトの特産地化に成功

昭和25年は終戦から5年経っていたものの、この頃は社会ではまだ食糧難の時代です。20年の台風による土石流で数百人の死者が出ました。自分の土地も70%が耕作不能になっていましたが、父の死亡のころには復旧していました。

最初の野菜作りはトマトでした。栽培記録をきっちりつけたので、父は  「お前はその方法で頑張りなさい。きっと成功するだろう。父が教えることは何もない」と言ってくれました。この父は、三太郎が幼少のころ、 日本各地から毎年5人栽培技術を学ぶために来ていた、彼らの教師だったのです。

昭和28年はビニールフィルムが農業用としては発売された年です。このニュースが1月に入りました。ビニールハウスを作ろう。大急ぎで計画と準備が始まりました。

1ヶ月早く種まきを終え、ハウスの建築が始まりました。友人の大工さんに手伝ってもらって、30坪の今思えば小さなハウスが出来ました。費用2万円なり。売り上げ6万円で、粗利益4万円。この規模は、自分の畑900坪の1年分の利益です。

この年は、最高の栽培技術の習得のあった年です。

4km離れた隣町にもビニールハウスのトマト栽培者がいて、その一人がすごいトマトを作っていました。最適の大きさ、形が最高で、1花房に6個、5段まで完璧、全てが揃っている。夢のようなトマトである。

友人が「どうやったらこんなすごいのが出来るんですか」と尋ねる。実はこんな質問に答えることのできる人はどこにもいません。  しかし彼は、 発芽時の土の温度はいくら、 定植までの株間はいくら、床土の材料は何を使うのか、この3つの質問に丁寧に答えてくれた。

次の年からは、ずーとこの最高のトマトを収穫することになった。
2年目には90坪、 3年目には190坪とふやしていった。 自分のトマトの評判が高まるにつれて、近所に住む10歳くらい先輩たちは、トマトを作りたいと思うようになった。 ある日5人が自分のところに来て「話があるんだけど聞いてくれるかな」「どんなことかなー」ということで、話を聞くと、「島ちゃんみたいなトマトを自分たちも作りたいんよ、教えてくれんかのー」ときた。  

 「うん、教えてあげる。自分の出す条件を守ると約束してくれたらね」 「それを言ってくれ、守れると思うから」  ということになり、そこで「1つ、種まきの日を同じ日にすること。 2つ、移殖時の株間を1回目8cm角 、 2回目は15cm 以上とする。 床土の深さは12cmとする。 3つ、自分のハウスに必要な苗数の120%を用意する。 4つ、以後自分たちのグループに入るものは、皆この取り決めを守ること」  「コレを守るものは最高の収入を得ることが出来、落ちこぼれるものは出ないであろう」 と提案したところ、  みんな賛成となった。その後部落の特産品として地域のリーダーとして、中国地方において名を馳せる事になった。

1年目に最高のトマトを自分に見せた彼は、それ以後2度と見せてはくれなかった。ただ偶然に、私に見せるためだけにあの年出来たのではないかと思っている。

養鶏を始める 27歳?31歳

農業をやっていると、篤農家と呼ばれる、色々な面で優れた人たちと知り合いになることも多い。稲の多収穫共進会というのがあって、出品している稲を見てから、これは面白いとチャレンジしたところ、10アール6石3斗8升で、全国1 位より5升少なかった。
もちろん外国の農業についても知ることが多くなる。その年にはドイツにおけるジャガイモの収穫についての記事を見た。自分もジャガイモを作ったこともあるから気になるので読んで見ると、10アール当り4,000kgが自分の最高記録なのに、ドイツでは  15,000kgが普通の収穫だという。実に4倍の量ではないか。

よく調べてみると、畜産との係わりが大きいことが分かった。躍進のためには何でもやってみなければ後悔する。牛 豚 鶏と検討してみると、養鶏が1 番適していることが分かったので、実際の養鶏家を 1日かけて見て回った。そこで自分なら成功すると見て、始めることにした。鶏糞には15種(当時は)以上の栄養素が含まれているからだ。

鶏糞はみかんの味を数段も高めるし、土質の改良にも良く、おいしいみかんを何年も食べることが出来た。おまけに養鶏からの定期的収入も多く、大いに経済が潤った。しかし自分は体が弱かったので、33歳のときにスーパー経営に転身した。ところが給料は 3万円で、農業時代(高校出て15年間)の 6分の1 にしかならなかった。

クリスチャンに改宗 39歳

家族がたくさん戦争で他界したせいか、子供のころから父がいつも仏教について話していたからか、宗教について大変興味があった。妙好人と呼ばれた信仰篤い人が、自分の周りに何人もいて、新聞に紹介されたり、話したりしたので興味が増したのかもしれない。

家から100mくらいの近所に、86歳の小尻和作さんと呼ぶ妙好人がいた。良いことなら何でも1番先にする人で、学校を建てるとか、消防署を作るとか、公共のもので寄付が必要なときには、予算の半分を一人で寄付する人で、いいことをしているのに、周りの人から大いに嫌われていた。

22歳の、ある雨の日、和作さんが自分の家に来た。「島屋元気でやっとるか」 「はい元気です」 「ちょっと話に来たど」 「はい聞きます。どうぞ話してください」 というと話し始めた。

和作さんは23歳で結婚し、その年から60回、毎年京都の西本願寺に2ヶ月かけて歩いて行ったこと。道すがら話した良い話があると、どこまでもその人に会いに行ったこと。人生の教訓はそんな人から教わることが多いこと。このような話の後で、彼の人生観を次のように話してくれた。

三太郎がかなり派手な農業をしているのを見て、バケツで水を汲み ざるに入れても水は溜まらない。ざるで水を汲みバケツに入れるとその内一杯になる。

荷物を背負うときは八分の重さにしなさい。どこまで行っても疲労しないくらいが丁度良い。  
畑に行くときは堆肥を、帰るときは河原の小石を背負ってくる。そのようにすると、高さ 8m幅30mの石垣もいつの間にか出来上がり、お城のような立派な石垣になる。

この和作さんの思いや行動は、自分のような凡人にはなかなか理解しがたい。自分の信念によって最善を選ぶ。どうすればこのようになれるのだろう。

私がトマトのグループを作ったとき、私に言った人がいる。「お前は馬鹿だなー。すごい技術を何で人にただで教えるのか。一人でやっとれば、もっと儲かるのに」 と。でも自分には無理だ。最高のグループにいて初めて、もっと高い知識と技術が自分にやって来る。天からの声のように、泉のように湧き上がってくるからだ。

自分は研究が大好きである。世の中には美しいものが沢山ある。美しいもの探しに夢中になったことがある。人が一所懸命に働いている姿が一番だと考えた。このようにして美の極致を見つけ、自分の生活に取り込んでいった。これに3年を要した。

同時にいくつかのテーマを探求するが、どれも3年くらいはかかる。人には迷いがある。試してみないと本物かどうか分からない。欲が手伝って、別の方法が有るかも知れないと迷うから、真理を見つけるのに時間がかかるのである。

39歳の4月、キリスト教の宣教師に出会った。紹介の映画を見て欲しいといわれて、15分位の映画を見た。20年間思い続けたテーマが解決してしまったのだ。和作さんの心、父が語った色々な言葉、心理の道筋がはっきりと見えるではないか。その日から宣教師の毎週1回のレッスンが始まった。話は昔話を聞く子供のように次が聴きたい。でもメッセージは届かない。昔話だからである。「聖典を読んでください」の言葉を試していなかったのを思い出して、まず50ページ読んでみた。神様のルールが、真理が私の上に開かれた。

私には否定することが出来ない。解決すべき問題は沢山あったが、3ヶ月後にクリスチャンになった。正月を迎えたときには4つのテーマを解決していた。1つのテーマに3年かかると思っていたことが3ヶ月に短縮していたのだ。私はいつも神様の言葉に従うと約束している。真理は一口で語ることは出来ない。全ての人は一生かかって悟っていくものであると考えている。

飛び込みセールスマンの4年間 50から53才、

18年間共同経営者として働いたスーパーストアーから身を引いて、自由の身になり、新しい会社に入ってセールスマンとして働くことになった。太陽熱温水器の販売である。自分はずぶの素人で、訪問販売なんかしたこともない。会社には34名の営業マンがいる。中でも1番と自他共に認める大隅さんが私を訓練することになった。私の方から、1週間大隅さんの営業を見せてくれるようにお願いし、ずーとくっ付いて話を聞いていた。何度か自分で話したいと思いながらじっと耐えた。

その月の私のノルマは4台だったが、同時入社の4人のうち3人がクリアした。2ヶ月目は順調に経過して10台売り、10台をクリアしたものには6万円の上級女性用の時計を賞品としもらった。該当者は6人であった。  3ヶ月目から退社まで毎月14台をクリアしたので、社内でダントツ1位の成績を記録した。

自分のエリヤを決めると、エリヤを一回りする。家々を眺めると、あーここで売れるのだなと分かる。でもそこだけを攻めるなどはしない。全部の家を均等に調査して回る。話は夜でないと出来ないから、そのためのリストを作るのである。私はみんなから愛されたので、トップを維持できたと思っている。

この年齢になると誰も雇用の対象として相手にしてくれません。仕事を変わることは大変なリスクがある。45歳以上の人は正社員になれない。給料は15万円以下。だから歩合制の仕事しか選ぶことが出来ない。

整体の施術師となる 53歳

4年間の営業の仕事も飽きてしまって、ガス会社に配管工として入社した。
4人の新人が同時入社、基本給19万円プラス残業、多くても25万円くらいで、この年齢になって安月給である。妻のレストランからの収入で家のローンはなんとかなる。

その道25年のベテランの坂本さんが班長で自分の上司である。  1日目、上司は現場に来て、ガス管の切断とねじ切りを教えると、パイプの長さを紙に書いて、配管現場に行ってこの長さのパイプを持って来いという。持っていくと紙切れをくれる。リズミカルに作業が進んでいく。新しい仕事は子供の玩具みたいでとても楽しい。

2日目、現場に行くと、昨日と同じことをすると思っていたのに、意外や坂本さんは1つの部屋を私に与えて、自分で配管しろという。寸法を取ってパイプをつないで見ると長さが合わない。坂本さんに尋ねると「長かったら新しいのを作ってやり変えなさい」と、こういう無駄な作業を何度か繰り返し、寸法取りのこつを学んでいく。もたもたしていたので坂本さんの半分くらいしか作業は進まない。  午後になって本調子になり楽しい日を過ごした。

1週間経つと、絶好調で坂本さんより仕事が速くなった。2ヶ月経ったころ一人で道路からビルへの本管を引き込み、アパートの部屋それぞれに分ける作業をしていた。そこへ社長がやってきた。「坂本さんはどこにいるの」  「2階の方にいます」 「島本さんは一人で全部出来るんではないの」 「このようにしろと言われれば出来ますが、図面だけでは分かりません」 「現場には必ず監督がいて、彼に聞けば何でも分かります」 「それならば何でも出来ます」 「では来月から責任者になってもらいましょう」こういうことがあって、 3ヶ月目から班長になった。1年たったとき、同期生の内から2人目の人が班長になった。

生涯最悪の腰痛に 53歳

ある日急いで歩いているとき、熟柿を踏んで、滑って転んでしこたま腰を打った。しばらくは動くこともならず唸っていたが、やがて仕事に戻った。 3ヶ月で50肩に、8ヶ月でトイレにも行けない程の腰痛になった。救急車で病院に運ばれ2ヶ月間入院した。

友達の紹介で骨盤調整法、自然良能会の五味先生の本を見た。一気に3回読み通した。こんなすごいことを考えている人がいるんだ。読み終えたとき、自分が施術師になっている姿が見えた。原理を自分の体に試してみた。すごい、ベッドに座れた。

まず本物の施術を受けてみよう。松山市にある支部に予約して体験してみたらもっと気分が良くなった。これは本物だと実感し、追求したくなり、東京の本部へ月2回の通いの弟子となった。   2人ずつ組になって練習です。40歳くらいの女性と組み、では私からやらせて下さいと施術を始めると、その女性が「待って」 と立ち上がり、大声で3人の友達を呼びはじめたではないか。 「この人は私たちの先生よりも上手よ、やってもらってごらんよ」 そこで4人の施術を始める。 「今日は何回目ですか」  「初めてでどうしてこんなに上手に出来るの」 と聞かれ「わかりません。1度施術を受けたことがあります。でもここに来なければ上手になれないでしょう。だから来たのです」と返事した。

結局途中でさばを読んだりしたが、6回で支部開設の認可をいただきました。これは新記録だと周りのものが言っておりました。認可まで2年くらいが普通とか聞きましたが、でもこれははっきりしません。

講義のとき質問の時間があります。私の質問には 「君の質問に答えられるものはどこにもいない。そんなに深く考えるな。 言われた通りやっていれば誰でも上手くなるから」 と言われ,答えがないのなら仕方がないと、あきらめる。次の講義の際も私の質問に同じ答えが返ってくる。質問が高度すぎるのだと、質問をやめてしまった。

1985年3月28日、 53才のとき自宅の2階で開業のスタートを切りました。五味先生の腰痛の本が、その日全国の本屋さんの店頭に新刊本として並び、私が開業したことも載りましたから、初日から患者の来ない日はありませんでした。 新患の多い順のリストが毎月発表され、全国90支店のうちベスト5をずーとキープしていました。夢のような話でしょう? 私も不思議だと思います。神さまが善良な人々のために、私を遣わされたと思われるようなことが、次々と起きましたから。

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